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日露戦争と美味しいお酒の関係

更新日:2021年1月17日

明治の時代、バルチック艦隊を対馬沖で迎え撃ち圧倒的な勝利を遂げた日本海軍連合艦隊。その旗艦三笠の建造をアルゼンチン(*)に発注しその費用を調達するために仲介をしたのが、かのリーマンブラザーズだったという話は今ではよく知られていますが、もっと日本人に知っておいて欲しいと筆者が願うエピソードについて今日は書かせていただきます。日本が欧米列強に伍して近代国家の仲間入りをする登竜門となったというべき日清、日露戦争。その戦費を支えたのが日本酒だったということをご存知でしょうか?酒造や酒販業界の皆さんはご承知のことかと思いますが、明治40年代の全税収に占める酒税の割合は、なんと4割を超えていたといわれています。

明治初期のころには、国税収入に占める酒税の割合は10%台でしたが、日清戦争後の財政支出が増大したことを受け間接税を中心に増税が度々行われ、その一環として明治29年(1896)10月に「酒造税法」が制定されました。その3年後には当時最大の税源だった地租(今風に言えば土地にかかる固定資産税)を抜いて最大の税源となっていました。

その後、日清戦争よりはるかに多額の戦費を必要とした日露戦争の時代に政府は時限的な特別税の導入によるさらなる増税を行い、当時の全税収の約4割を占めるに至ったようです。ただ、時限的措置だったはずの増税は戦後も緩和されることなく、大正から昭和にかけて所得税、住民税等、直接税徴収の仕組みが整備されるまで、酒税は最も重要な税源であり続けました。これと並行して、酒造業者に対する免許制や自家用酒製造の禁止等、税源の管理、確保のための措置が導入され、現在に至っています。その状況は、税収に占める割合がわずか数パーセント(一桁台の前半)と軽微になってしまった今でも変わりません。

その一方で、政府はこの重要な産業の維持、発展を支えるための措置も怠らず、醸造技術に関する研究機関として明治37年(1904年)5月(日露戦争開戦の3か月後)、大蔵省(現 財務省)の管轄下に醸造試験所(現 酒類総合研究所)を設立し、醸造に関する研究、技術改良とその指導に努め、日本酒の品質改善と生産性向上に大きな成果を残しました。たとえば、醸造試験所が開発した「速醸酛」造りの技術は、いまも大半の酒蔵で利用されており、腐造することなく安定的かつ効率的な酒造りを可能にしました。また、明治39年(1906年)1月には、醸造協会(現 公益財団法人日本醸造協会)を設立し、優れた品質の酒造りを行う蔵元の技術を公開して全国の酒蔵で共有できるようにしたり、そうした蔵に住み着く「蔵付き酵母」(天然酵母)を分離し「協会酵母」として頒布するなど、酒造業界全体の底上げに大きく貢献しています。ちなみに、日本酒通の間で高い人気を博す「新政」の銘柄「No.6」シリーズは、昭和5年(1930年)、この事業を始めてから6番目に秋田の新政の蔵で分離に成功した「協会6号酵母」の名前に由来します。

私たちが、いま美味しい日本酒をいただくことができるのも、日露戦争の時代から続いてきた財務省、国税庁関係の先人たちの指導力のおかげかもしれません。


*)執筆時に事実誤認がありました。旗艦の三笠は英国NewcastleにあるVickers社の建造でアルゼンチンに発注したのは巡洋艦日進と春日(イタリア・ジェノバにあったAnsaldo社建造)でした。お詫びともに訂正いたします。(2021.1.16 筆者追記)

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