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「下らない酒は旨い?!~江戸時代の下り酒と現代の人気の地酒~」

更新日:2020年11月8日

(蔵人応援団 2019年10月3日(木)定例会の配布資料を一部再掲)

江戸時代に庶民へ大きく広まった日本酒の歴史

宮水の発見と灘酒の発展

 江戸で飲まれていた酒の多くは下り酒の諸白でした。諸白は、はじめ「南都(=奈良)諸白」が高い評価を得ていましたが、江戸時代に入ると、その主産地は、いわゆる摂泉十二郷と呼ばれる摂津の伊丹・池田・灘に移り、これらの地域が銘醸地になりました。さらに、天保8年(1837年)に山邑太左衛門によって宮水(みやみず)が発見されると、その中心は海に遠い伊丹から、水と港に恵まれた灘へと移っていきました。また、六甲山脈を背にする灘は、酒造りに最適な六甲山の伏流水や、冬の六甲おろしによる寒冷な気候、六甲山の急流を利用した水車精米、播磨・摂津の良質な米などに加え、丹波杜氏の優秀な技術もあって、現代の日本酒にほとんど近いような美味い酒造りに成功していました。

上方からの物流の確立

 すでに人口70万人を擁していた大消費地江戸で消費される清酒の大半は天下の台所といわれた集散地大坂や堺など上方の商人により、これらの銘醸地から運ばれてくる、いわゆる下り酒と呼ばれるものになりました。下り酒は、元和5年(1619年)より菱垣廻船による大量輸送がはじまり、享保15年(1730年)からは船脚の速い酒荷専用船の樽廻船によって酒荷だけで運ばれるようになりました。その量は、年間100万樽(1樽=約4斗)にも及んだそうで、江戸の後期になって江戸近郊で醸造業が発展するまで続きました。

酒造統制と杜氏よる寒造り

酒造りは大量の米を使うために、米を中心とする食料の供給と競合する一面を持っています。そこで幕府は、ときどきの米相場や食糧事情によって、さまざまな形で酒造統制を行ないました。まず明暦3年(1657年)、初めて酒株(酒造株)制度を導入し、酒株を持っていなければ酒が造れないように醸造業を免許制にし、寛文7年(1667年)伊丹でそれまでの寒酒の仕込み方を改良した寒造りが確立されると、延宝1年(1673年)には酒造統制の一環として寒造り以外の醸造が禁止され(寒造り以外の禁)、これにより以前は普通に行われていた四季醸造は途絶えました。こうして酒造りは冬に限られた仕事となったため、農民が出稼ぎとして冬場だけ杜氏を請け負うようになり、やがて各地にそれぞれ地域的な特徴を持った杜氏の職人集団が生成されていきました。

「西高東低」の構図

当時、大消費地江戸で消費される日本酒はほとんどが下り酒で、さらに下り酒の7割から9割は、摂泉十二郷(せっせんじゅうにごう)と呼ばれる、伊丹や灘の周辺地域で産した酒でした。その一方で、現在の関東地方とほぼ等しい関八州では、江戸がその中心地で、また幕府の直轄領が多いにもかかわらず、産業収益率が上方や西国に及ばず、江戸期の日本経済はおおまかには「西高東低」でした。

関東の地酒である地廻り酒は、江戸の消費者にとり「下り酒」の反対語、「地廻り悪酒」などと悪口を叩かれ「安物の酒」とか「まずい酒」といったニュアンスがありました。江戸の庶民は高価でも下り酒を買い求め、地廻り酒は売れませんでした。

下りものの制限

江戸の商品需要をこのように上方からの下りものに頼ると、輸送費がかかる分だけ江戸では消費者物価が高くなります。こういう状況が続くのは、為政者である幕閣にとっても好ましくありませんでした。

江戸後期の天明3年(1783年)に浅間山が大噴火し天明の大飢饉が起こると、幕府は、天明6年(1786年)に諸国の酒造石高を五割にするよう減醸令を発し、天明8年(1788年)には酒株改めを行い、その結果にもとづいて三分の一造り令などが示達されました。松平定信は寛政の改革の一環として天明の三分の一造り令を継続するとともに、「酒などというものは入荷しなければ民も消費しない」との考えのもとに下り酒の江戸入津を厳しく制限しました。この後、寛政2年(1790)から天保4年(1833)まで松平定信らを中心に「寛政の改革」による改善がはかられました。

遂に御免関東上酒が誕生!

幕府は地廻り酒を下り酒に劣らない品質に高めようと計画しました。まず下り酒を禁止するとともに武蔵、上総など関東の川沿いの豪商などに酒米を貸与し、これで上質諸白の日本酒3万樽を造らせ、消費者の反応を調査するなど、いくつかの政策を打ち出しました。このように幕府の肝いりで関東の酒屋に作らせた酒を御免関東上酒といいます。

参考資料:

・日本の酒 (坂口 謹一郎著、岩波書店刊)

・日本酒 (秋山 裕一著、岩波書店刊)

・酒の日本文化(神部宣武、角川書店刊)

・日本の食と酒(吉田 元著、講談社刊)

・酒肴奇譚(小泉武夫著、岩波書店刊)

・Webサイト 日本酒の歴史 - Wikipedia

・Webサイト 江戸時代の日本酒ランキングから読み解く、銘醸地・灘の発展─ 熟成古酒の失われた100年<7> | 日本酒専門WEBメディア「SAKETIMES」

・Webサイト 御免関東上酒 - Wikipedia

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団長の蔵めぐり日記より

千葉の酒どころ神崎に行ってきました。 2015年3月16日(月)

関東財務局の資料によると、千葉は「隠れた酒どころ」だとか・・・

(ご参考) http://kantou.mof.go.jp/content/000055589.pdf

特に佐原・神崎(こうざき)地区は利根川水運の要所として古くから栄えた土地柄からか、

酒造りも盛んに行なわれていて、江戸にも出荷されていたそうです。

当時の江戸の人は、(上方に)「くだらない」酒として飲んでいたと思いますが、なんの、なんの、関西出身の私にも、伏見や灘の有名銘柄よりもはるかにおいしいお酒を造っていることがわかりました。

*かつての佐原市が06年の市町村合併で当時の香取郡の大部分と一緒になって「香取市」ができて、一緒にならなかった一部の周辺地域が「香取郡」として存続しているようです。


田村酒造蔵見学 2015年11月23日(月)、2015年11月25日(水)

とても大きな敷地内には歴史を感じさせる建造物や設備がたくさんあって、そのうちのいくつかは国の重要文化財に指定されています。玉川上水から引き込んだきれいな水の池には錦鯉が悠然と泳ぎ、樹齢数百年から一千年ほどの巨木が何本もあるなど、豊かな自然が残されていています。今ちょうど見頃を迎えたあでやかな紅葉が目を楽しませてくれます。

蔵の創業は江戸時代後期の文政5年(1822年)、文化文政時代の真っただ中。町人文化が華開き、その中心も人口の増加に伴い上方から江戸に移り始めていた時期です。

お酒の需要も拡大し、上方から運ばれ消費されていた「下り酒」に代わるものとして、江戸近郊での酒造が幕府により奨励されていました。

そうした経緯から、今の東京都、埼玉県一帯には酒蔵がたくさんでき、急速に発展していったそうです。

創業者である田村家16代目当主の勘次郎は、酒造りに適した水質の井戸を敷地内に掘り当てた喜びから、「嘉泉(かせん)」(=よき泉)と名付け、酒造りに乗り出したとのことです。

そして、一時は武州一帯(東京都多摩地区、神奈川県・埼玉県の一部)で24もの酒造販売店を取りまとめる総本店(たな)として栄えました。


多摩川上水からの引き水を使って水車を回し米を挽いたり蔵で使う道具を洗ったりしていました。

江戸から明治期にかけて、この水路を100艘の舟が行き交っていたこともあったそうです。

上総一ノ宮の蔵元さん 2016年5月1日(日)

大網に住む友人の誘いで、地域の皆さん10人ほどで行われる酒蔵見学に特別に参加させていただきました。

千葉県長生郡一宮町にある稲花酒造さんという蔵元さんです。

創業は江戸中期の文政時代。生産量は400石弱とのことで、地元消費が主な需要の小ぶりな酒蔵ですが、豊富な種類の美味しいお酒を少量ずつ丁寧に造っていらっしゃる、とても素敵な蔵元さんでした。

東京でも簡単に手に入ればなあと思う、とても酔い酒も見つけました。でも残念ながら、量が本当に限られていて、限りなく「幻の酒」に近いのです。


結城を訪問 2017年3月20日(月)

日曜日に、酒友たち4人で茨城県結城市にある小さな蔵を訪ねました。